店長若かりし頃の旅行記

 

この旅行記は「手作り石鹸めぶらーな」の以前のHPに載せていたのですが、その後HPを更新して以来外していました。時々、続きが読みたいと言ってくれる人もいて、自分の覚書としてもこちらに載せてみます。

もしよかったら読んでください。

私が旅した 1970 年代はヒッピーの全盛時代で、たくさんのアメリカやヨーロッパの若者たちがインドを目指して旅をしていました。

もちろん日本の若者もいました。

 

この時代はアメリカとソ連の冷戦時代で、時には中東戦争 ( イスラエルとエジプトの戦争 ) がありましたが、中近東は比較的平和な時代でした。

 

今では信じられないけど、ロンドン発のヒッピーバスが東ヨーロッパ、中近東を走りぬけインドのニューデリーを経由してネパールのカトマンドウまで長距離を走っていたのです。

 

当時ヒッピー文化のことはほとんど知らなかった私が、ヨーロッパから列車、バス、船などを乗り継いでインドまでたどり着こうとしたことは、何百年も前から続いているシルクロードの旅への憧れであったと思います。

 

今から 40 年以上前の旅の記録ですが、思い出しながら書いてゆきます。インターネットや衛星放送がある今の世界と違う、昔ながらの生き方が続いていた世界を旅し、人と出会った記録です。

 

Part1 旅立ちーモスクワ

 

朝、新橋のホテルからリックを背負って横浜港に向かいます。 1975 年 9 月、ソ連国籍 ( 当時 ) の貨客船がナホトカへと、出発の時を待っています。

それほど大きな船ではありません。乗船客のほとんどが日本人の若者で、ほんの少しヨーロッパ国籍の人たちもいます。

 

横浜からナホトカそして夜行列車でウラジオストック、ここからはアエロフロート航空でモスクワに行き、 2 日間ほどモスクワ市内に滞在して、列車でオーストリアのウィーンに向かいます。当時、ヨーロッパに行くにはこのルートが一番安かったようです。

 

友人たちの見送りを受けて、船はゆっくりと岸壁を離れてゆきます。 船は北上し、左手には日本の陸地が見えています。津軽海峡を過、朝目を覚ますと、もうどこにも陸地は見えません。ただ、見渡す限りの海の中を船は進んでゆきます。

 

 

1973 年、会社の同僚からアフガニスタンという国は面白そうだから行ってみないかと誘われたのが、この旅の始まりです。

世界地図を買い、机の前の壁に貼り付けて毎日眺めていました。

 

そして、自分の中では少しずつ旅のシナリオが作られてゆきます。 旅の終着地はインドに決めて、イスタンブールから陸路でシルクロードを通って行くことにしました。日本の外に出て、自分自身を見つめてみたい。そんな気持ちが強くなってゆきます。

 

旅行までの 1 年半の準備期間には、北陸にある禅寺で座禅の体験もしました。そしてインドに着いたら、ヨーガを習ってみたいと思い本も調べていました。無意識の中で何かを捜し求めているようでした。その何かはまったく分かりませんでしたが・・・・

 

ただこの旅で私はたくさんの人たちと出会います。

ひとつの場所から別の場所に移動することにより、新しい人たちと出会います。それらの人たちは私に未知の世界を見せてくれました。今まで私の生にはなかった新しい生き方でした。その体験は私をある方向へと向かわせてゆきます。

 

 

この時期ヨーロッパに行こうとしている 5 名の男女グループと知り会うことができ、旅行についてのミーティングを持つことができました。彼らは私より一ヶ月早くパリに向かいました。私も旅の日程を書いてパリにいる彼らに手紙を送りました。

 

船は午前中にナホトカに着きました。軍港がある港町で戦闘機が低空で行き交っています。

 

全員がここで下船して、バスに乗ってしない観光に向かいます。

バスの中から見る市内の建物はきれいな黄色の色が塗られています。この黄色が印象的でした。どこかこざっぱりとした明るい町並みです。

 

バスは港が一望できる小高い丘の上に着きました。そしてシティーホールのような所で昼食を食べました。

ここは日本と関係の深い港町のような気がしました。

 

夕方駅に着くと、船においていた私たちの荷物が列車の中に運ばれていました。

ここから寝台車でウラジオストックに向かいます。上下二段のベッドになった寝台車は日本のブルートレインのようです。

 

朝ウラジオストックの駅に着きそのまま飛行場に直行します。

ここからモスクワ行きのアエロフロートに乗り西へと飛んでゆきます。飛行機から見る太陽は傾きかけているのですが、何時間経っても日は沈みません。長い一日でした。

 

飛行機の中で印象的だったのはロシア人の搭乗員です。彼女らは接客をするというよりはお役所の仕事をするように私たちに接します。堂々としていて、こちらから何かをお願いするという感じになります。

 

ナホトカに向かう船の中でもそうでしたが、モスクワのホテルなどでも食事は一度としておいしいと思ったことはありませんでした。いつも食べた後は消化不良を起こしているような気持ち悪さを感じていました。

 

モスクワは大都会でしたが、灰色の街でした。どこに行っても何を見ても灰色で活気がありません。食事事情もそれほど良いようには見えません。観光客が食べては申し訳ないような気持ちになります。

 

次の日は一日観光バスに乗って市内観光をしました。今それを思い出すのは、ロケットなどが展示してある科学館のような所と、大きな劇場でバレーを見たことです。当時ソ連はまだ自由な旅行ができなかったので、ソ連を通ってヨーロッパに行くには、これらの観光もパックになっています。

 

 

 

夕方、モスクワから列車でウィーンに向かいます。残り少ないルーブル ( ソ連の通貨 ) を使い何度か食堂車で食事をします。夜中に国境に着き、パスポート、荷物のチェックがあります。かなり厳しく調べられ、何時間も止まったままです。

 

ソ連の国境近くに近づいたとき、乗客の老夫婦が話しかけてきました。言葉はほとんど分かりませんでしたが、言わんとするところは自分たちの荷物を預かってくれないかということのようです。ソ連の検察官は出国する自国民には、とても厳しく荷物検査をするようです。一旅行者が安全に旅行をするためにはトラブルをできるだけ避けなければなりませんので、丁重に断りました。

 

私たち旅行者の荷物検査は社内のコンパートメントで行われました。それでもかなり厳しく一つ一つバックパックの荷物をチェックしてゆきました。私たちのコンパートメントに来た検察官は雑誌の中まで全部見てチェックをしています。誰かが日本から持ってきた週刊誌の写真に柔道をしているものがあり、それをじっと見ています。自分は軍隊で柔道をやり、とても好きだということです。

 

自国民は全部の荷物を持って列車から降りて、建物の中で行われていたようです。先の老夫婦は山のような荷物を持ち、バックの口からは荷物がはみ出して、憮然とした顔で戻ってきました。

 

レールのゲージを変える所では、乗客が乗ったままで車体が持ち上げられ、車輪が取り変えられます。ここからいよいよ西ヨーロッパに入るのです。

 

part 2  欧州へ